2,3ページ読んで、もっかい読み直して、今度は3,4ページ読んで、と3歩進んで2歩下がり、ゆったり読む。
とりあえず第1章だけ読んだので、印象に残ったとこをおさらい。
「全体性を志向する自己」と「無限を志向する自己」。
なんのこっちゃですが、レヴィナスという人の考える「私」という在り方、「他者」という存在についての話だそうで。
・・・ってか・・・・
スゲーーーー!
こういうオチがつくのかっ!と、第一章にして既に満足してしまった。
勘違い、誤読も雨あられでしょうが、とりあえずざっと感じたことを。
まず「全体性を志向する自己」という概念。これは比較的わかり易かった。
ここでの「私」にとって、「他者」とはいわゆる”想定内”な存在。
知らない存在でも、知った瞬間に「ああ、それね」と理解できるようなものが「他者」。
強大な敵であっても、こちらが力をつければ打ち負かせるようなものが「他者」。
ここで「私」にとっての「他者」とは、「今は知らないけれど、知ったら理解できる」という、自我に組み込み済みのもの。
「世の中には2種類の人間がいる。跳び箱を跳べるヤツと、跳べないヤツだ」というような二分法はよく聞かれるところですが、この「私」は世界をそんな風に区分しているような気がする。
知ること、理解することで他者は身内になり、自我はどんどん拡大していく。他者は他者であって、身内でもある。すべからく他者は、未来の身内となりうる。
私は他者を伴ってこその「私」ながら、「私」の中に全ての「他者」は組み込まれている。これが「全体性を志向する自己」。そして私は、他者に対して絶対的な優位性(殺すも、逃げるも自由)を持っている。
私にとって、「他者」は成長の糧なのだ。
ただし、この自己はある孤独を持つ。
世界は全て「想定内」で「織り込み済み」な存在であるため、「私」は「私」が経験していることを、「私は今~~をしている」と客観視することができる。いわば、「私」は一枚のガラスを隔てて、上から「私」を見ている。そのため、「私」は世界の全てと関わることができるのに、どうしても深く関われない。というか、「経験しつつ、かかわりを持たない」。
- 「すべてが与えられているのだが、その全てがよそよそしい」
……がーん。
なんか、似たような孤独を経験してた気がする。関わりたいのに、関われないもどかしさ。これのことかな。。。
ものすごく美しい風景を見たときに、ものすごく感動した。
その感動を忘れないように、その風景を記憶に留めようとした。
そうして風景を「身内」にした。
その瞬間に、感動はするりと逃げていってしまった。
まだその場にいて、その風景を体一杯に感じているのに、「今自分は、この場所で、この風景を見ているんだ」とか思った瞬間に、感動は「自分は感動している」という脳みそで作った感覚になってしまった。
ああ、思い返してももったいないことをした。もっと「ぼーっと」眺めてれば良かった。おかげで記憶には焼きついたけれど。
世界が全て「織り込み済み」になってちゃ、感動なんてできんわな。
きっと「全体性を志向する自己」にいる間は、新たな感動を得るためには、もっと素晴らしい、もっと珍しい、もっともっともっと…なんて求め続けないといけないんだろう。
「全体性を志向する自己」は、新たなものを取り込み続けることを志向する。それじゃあいつ「満足」するのか?きっと永遠に満足しない。
だから、人はどこかでこの自己からの転換を行うのだろう。それが、「無限を志向する自己」?
じゃあ「無限を志向する自己」って何ですかー?と読んでいても、なかなかようわからんことを仰る。
「私」という主体を形成するには「他者」が不可欠。ところが、この概念での「他者」は、「全体性」での他者とは全くの別物。
- 他者は私に戦いを挑むことができる。しかし、他者を打ち砕こうとしている力に対して抵抗の力を対置させるのではない。その反応の予見不可能性を対置するのである。他者はより大きな力でもって私に対峙するのではない。そうではなくて、この全体を他者が超越しているという事実そのものによって私と対峙するのである。
……とりあえず、この「他者」は、そもそも理解のできない、予見の不可能な、超越的な存在であるらしい。
「全体性を志向する自己」では「織り込み可能」な他者から主体が形成されていたことに対して、「理解不能な絶対者」に対比した場合の主体。それが「無限を志向する自己」?
まだよくわかりません。だいたい何が無限なんだ。
ここで、例として神様を挙げている。
特に何かの罰とかいうわけでもなく、なんの文脈もなく、神様が理不尽なことを言った。
「愛する子供を燔祭(丸焼きにした供物)に捧げなさい」
何で神様がこんなことを言ったのか、さっぱりわからない。何かの隠喩か?文字通りか?ただの嫌がらせ?私への試練?謎である。
この謎に対し、結局「私」は子供を焼き、神に捧げた。
だが「私」がどんな決断をしようとも、それは「私」の責任である。絶対者である神にその責任をとらせることは出来ない以上、その謎を解釈し、どのような行動をするべきか、決断したのは「私」だからである。
その選択は孤独で、苦しい。誰も答えを教えてくれない。そもそも答えがあるのかすらわからない。
しかし、その孤独で苦しい決断こそが、「私」の主体性を基礎づける。「誰によっても代替不能な責任」、ここでは「我が子を焼いた責任」を引き受けることにより、「私」の主体性は立ち上がる。
誰も「私」の行動を保証してくれない。その絶対的な無根拠さ、孤独の中から選び出した決断、それこそが「私」を主体的な存在足らしめる。
その主体を、「成熟した人間」という。
- 不在の神になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ。それはおのれの弱さを計量できるもののことである。
と、ここまで読んで冒頭に戻る。
そうか、そういうオチかっ!!
大分勘違いも多そうだけど、なんか読んでて感動した。
「全体性を志向する」ことが「そのうちぜーんぶ、わかるとも。ピース」ということに対し、「無限を志向する」とは、何もわからないし、かつ、どこまででもわかっていける、ということなのかな。
うーん、ようわからん。
でもとりあえず、「無限」の方には、「すべてが与えられているのだが、その全てがよそよそしい」ってことはなさそうだ。一つずつ、自分でしっかと掴み取っていく。そんな地に足のついた態度が伺える。
やあ、えらい時間かかってもうた。一章だけでこれじゃ、先が思いやられるのぅ。
そのうち続きを書く、かもしれません。長文にお付き合いくださり多謝。
0 件のコメント:
コメントを投稿